画家「平野京子」冬ソナの印象を描く《エッセイ》


どこからきたの セブンちゃん
平野 京子・著
2007.7.7
ISBN:978-4-7733-7485-8
定価1260円
ある日、庭先に突然現れた子犬。瞬く間に著者を魅了した子犬はセブンちゃんと名付けられ、
すくすく育っていく。「オハヨー」と人語を話し、四つ葉のクローバーを見つける名人でも
あったセブンちゃんを、写真・絵と共に回想する。
近代文藝社


1999

平 野 京 子

kyoko HIRANO

1930〜


<空>


新作:CGで絵を描く

平野京子、「冬のソナタ」印象を描く


'99
6月28(月)〜7月3日(土)まで個展が開催されました

平野京子  1999 個展

kyoko hirano   Exhibition

Paintings & Prints

6月28日(月)〜 7月3日(土) 

シロタ画廊
銀座7丁目10番8号

・「夜の公園」シリーズ    
80号〜100号キャンバス 7点

・小品『天使達の微笑み」他 
CG 約20点


'98
5月10(日)〜5月20日(水)まで個展が開催されました
9:00AM〜7:00PM(最終日5:00PM迄)

平 野 京 子 展

1997年11月銀座シロタ画廊で行われた個展のアンコール展
が開催されました。
会場:野田市役所 ふれあいギャラリー


シロタ画廊で個展が開催されました

97/11/3〜11/8

搬入の日 


略歴


アトリエノート


キツネとタヌキがでてくる
おはなし集


ひらの絵画教室


アトリエノート

昭和56年5月

爽やかな季節がやってきました。

今月は、日頃アトリエでお母さんとのおはなしあいしたときのことや、

アトリエノートから拾ってかいてみました。


小さな胸のなかのひきだし
こどもが本をよんでいるときやおかあさんにおはなしをよんでいただいているときは、いろいろ
な空想の世界にいますが、とくに幼児の頃は(小学校1、2年生でも)一人でよめてもおかあさん
によんでいただいた時には一人でよんだ時はより広がり、夢もいっそうふくらみそれらが自分の
胸のひきだしに少しずつ入って行きます。
又、こどもたちが秘密の場所でみつけた小石、タカラモノ、おうちのみんなで興味をわかちあっ
てみたTVの動物の時間、おとなりの犬のあたまをなでたこと、小鳥を抱いたらあったかかったこ
となども、みんなひきだしに入っているでしょう。

あるとき、それらがひきだしから現れてはたのしい夢のある世界を作り出すことでしょう。


てっせんの花

 いつか私の家の庭の垣根に咲いたテッセンの花の紫がとてもキレイでしたのでこれをチェコの

カットのすてきな器に入れて描かせたことがあります。

少し大きいこどもたちですが、みんなこの時は素敵な絵をかきました。

とてもせんさいなカットグラスですがよく感じをとらえてかきました。

 紫の花は色をまぜて指先でこすりめのさめるテッセンが生まれました。

そのあとてんらん会の時には、このテッセンの花も何点か並びました。

その時ある男の子のかいたテッセンの絵の前でその男の子のお母さんが私に「うちのこはこれを

かいた時の会話も覚えているのですって」とおっしゃられて、まあ、どんな会話だったのかしら
とたのしくなったものでした。

 これなどは自分で絵をかいた時の光景と絵が共に自分の胸のひきだしにそっとしまわれたとい

うようなたのしいおはなしです。 55年6月


こどもは自分の知っていることを描く

 こどもはしっていることをかくこどもは自分のしっていることをよく絵にかきます。

よく幼児が(大きい子でも)紙一ぱいに木をかいて土の中のねっこまでかきますね、それはこど

もが木には大きなねっこがはえているのを知っているからかいているのです。

あたりまえといえるかもしれませんが、こんな無邪気に知っていることを絵にかくこどもとはや

はりすばらしいと思います。

 そしてその時のこどもは自分も絵のなかの大きな木になった気持ちになっているのです。


おどろきから生まれるものは

少し大きなこどもに私が「自分でわどろくような絵をかかなくちゃあ」等というと、こどもたち

「ええ一ッ、下手でおどろくの?」

「あっ、おどろいた」

等とおどけてみせるこどももいますが、勿論こんなすこしの言葉からはその意味がわかる筈もあ

りませんが・・・・何となくは通じるものです。

絵でも工作でも或るとき、ふと自分がかいたり作ったりでの過程で、遇然にいつもとは違った色

の配列や形を発見して

「あっ、これはいつもと違うぞ」

「これはすごい」

と自分で自分のそれにおどろくことがあるものです。

たとえば、びんのえのぐを、

いつもは何となく自分の前にある色ばかりとか、

だせいで使っていたけれど、その日は違う色と色を少し重ねてみたらとてもすてきにみえて、

びっくりすることもあるでしょう。

そうしてこの時すかさずそれを「いいわねえ、今日のだれちゃん」と、

ポンと肩をたゝかれたとしたら。

自分ではっとした瞬間に同じ思いを指摘された喜ぴで、

こんどはもっと思いきって色や形のぼうけんをはじめるかもしれません。

それは人に教えられたものでなく、

或る日自分で発見しておどろいたその感動が次の生き生きした絵をかかせるのです。

絵はけっして出来上ったものが問題ではなくてかいているその時その時が大切なわけです。


或る日のねんどあそびから

 砂場のすなに水をかけてお山をつくったり、ねんどをつかむとつかんだまんまのか
たちとなりこんどは指で穴をあけてみたら、向うが見えたうれしさ・・・こどもたち
は小さい時にいっぱいあそんだねんどや、どろんこあそびの感覚と共に大人になって

いきます。

 このどろんこあそび、ねんどあそびがまさにニーディングです。

板の上でねんどに体重をがけて

「ヨイショ」

「マダカタイゾ」

といいながら高く持ちあげてドスーンと落したりすごい音です。

それでもまだ足りずくつしたをぬいでこんどは足でドスンドスンこねています。

お家でも紙の土にかく絵以上どろんこあそびをやらせましょう。

 今日の幼児クラスはねんどです。アトリエでは紙ねんどですので、いつものように
手でこねてほどよいがたさになると元気のよい誰がが「エイッ」とばかりねんどの上
で足ぶみをはじめます。

するとみんなも次々とトントントン、グニャグニャいい気持ちだなあ。

それでも小さい女の子はそれをニコニコみているだけで、まだまだ自分は足でこねる
ところまでは出来ずに手でペタペタ、そのうちに一寸、くつしたのががとを少しずら

してねんどのふちにのせています。

でも遂に「エイッ」といつの間てがねんどは足の下です。

とびはじめました。

ピョンピョンピョンそのうれしそうな顔だったこと。

 もうここまでで今日の目的は充分です。

その日、ぞの女の子のつくったものは今までにないなんともゆたかな木の葉形の入れ

ものでした。

(紙ねんどはかたまる性質上あぞぴのあとは何かをかたちづくってかえることになる

が)
 それから、やはりもう一人の小さい女の子はこの日とても前回のときの手つきと
違ってのびのびとねんどをあつかって(この場合こねかたの上手なことをいっている

のではなくてねんどと一体になっている無心さをいう)いるのでぴっくり。

あとでお迎えのおとうさんから

「あゝ、この間、いなかにいったときにおもちをこねたのですよ。」

と笑っておっしゃられたことばになるほどとたのしくなりました。

 こうして充分ねんどと一体になったこどもたちは、こんどは自分になじんだねんど

で思い思いのものをつくってはこわし、つくってはこわし又つくってかえりました。

このニーディングが大切なのでそのあと作ったものが、たとえ大きなかたまりであ

り、平几なお皿の上のおだんごであっても、それでよいのです。

 お迎えにいらっしゃったおとうさん、おかあさんはおこさまの手の上のものより

も、生き生きしたネ、こさまの表情をきっとみてくださることでしょう。

                         55年10月


「お前は誰か」フェイゾン・ショウ
幼児の粘土は描画のスクリプリンク(ぬたくり描き)と同じ段階にあたりぐじゃぐ
じゃ握って指の間からはみ出したり、ころがしたり、板にぶっつけると音がした?など
とそれを表現の材科として使用しようとはしないという特徴があるが、これも重要な
発育の一プロセスであって、すなわちそれらのモノの性質を知ろうとする、つまり、

お、まえはいったいどんなものか一という時期なのである。

 つまり「お前は誰が」という態度で新しい材科を迎えるが

「おまえで何ができるか」という考えは起らないのが、この時期の特徴であることを

知っでほしい。

フェイゾン・ショウ


絵は不思議な科目

絵は何才だからどういう絵がかけるとかいう規準は一切ありません。

まして他のこどもとの比較など出来るものでもありません(絵は教えられて描くものではなく、

そのこどものことばなのですから。

他の科目とはぜんぜん違う不思議なものが絵とか創造の世界です。

例えば、紙に向って丸でも一本の線でも自分の意志で描かなけれぱ出来上がらないのが絵なので

す。

あたりまえですが、ここが大切なので人に教えられてかくときは何の喜びもなく(らくではある
けれどたのしくない)自分のことぱで自由にかいたあとは、なんともここちよいものが絵なので

す。

幼児の絵は、えのぐあそびからはじまります。

小さいこどもは自分の手形を紙にうつすのが大好きですね。

手のひらにえのぐをぬりたくりまあたらしい紙をよごす?

そのここちよさは、だれでもけいげんずみです。

何年も前のことですが、お迎えのおかあさんが手形の絵をみて、そのおこさんに「先生がいいっ

ていったの?」と、そっときいている風景がありました。

 絵はこどものほうがおかあさんより、せんせいです。

小さいこどもは絵の具と一体になってたのしむ方法をすでに知っているのです。

 


絵は自分のためにある

一幼い絵をがくこどもぼど有望一

午前クラスのある朝その日もみんな元気一杯に絵をかいてぞれぞれ帰り仕度です。

この前の絵を持って帰るとき、一人のこどもが「これをもっていくとおこられる」と

小さな声。

今迄の元気な顔にはちらりとあせりが・・・・

 絵はいろいろな体験や夢や、又ある時には攻撃的ですらあって、それらをいつでも

力一ぱい何の制約もなしに発散(エネルギーの放出)できるこどものひろばです。

 元気あふれるこどもほど紙に向ったとき(ものをつくるとき)誰のまねもない自分
のことばで自分の体のなかからあふれでた欲求でそれを表現しますし、又そうあるべ

きものなのです。

 絵は幼いほどよいのです。

形などぜんぜんなくてもよいのです。

なぜならかきたいものがほとばしり出るときにて、いわゆる形や結果などをいちいち

気にするでしょうか?

かいているうちにまっくろにぬりつぶされてしまうことだってあるでしょうし、形が

なくてただの色だけの絵だってあるはずです。

(むしろ日本のこどもには少なすぎる)またこのようなこどもであるからこそ、それ

らのかかれたものは誰のめをもひきつけるのです。

だれのめからみてもわかるかたちがあるからいい絵なのではなくて、生き生きした内

容が人の目をひきつけるのです。

 たヾ、誰のまねもなくかける為には、その前に大切な「ぬたくり期」(えはたのし

いもの)があるのはいうまでもありません。

もしこの期を未通過のこども(1年生でも2年生でも)があったとしたら今から、今日

からでも前期に戻してあげるべきです。

又かつて通過したこどもでも元気のない絵をかきはじめた時は、もう一度やらせるべ

きです。

砂場などで幼児やこどもがつくってはこわし、つくってはこわしをだれでもやってい

ますが絵だってこれなしではのびのび絵はとうていかいていくことができません。

 ぐちゃぐちゃがきを思いきりやらせずに一刻も早く、次の整形の段階に追いやろう

とすればそのこどもは発展性が少ないこどもになってしまいます。

こどもは大人が喜ぶ内容をつくっているわけではなくつねに躍動にみちあふれた存在

です。

 若し大入が無意識のうちにいつも大人にとって「好ましい絵」或は「かいてほしい

絵」を指示したり期待をしていたらそれは間違いです。

そして小さいときから結果ばかりを意識して紙からはみださないたヾのきれいな絵を
かいていると、やがて夢のある絵がかけない何かお手本がないと絵がかけない(浮か

ぱない)人になってしまいます。

そればかりでなく課題画の場合にものびのびした絵はかけません。

*************
たのしいはずの絵の時間に、ひとときでも(結果を気にする大人を意識した)不幸な
こどもをつくってはならないのです。

*************

大人があせる間は、こどもはのびのび絵からは遠ざかるのみですが、大人があせらな
くなったその瞬間から、こどもは安心して(不思議に)どんどん絵の上でぼうけん
していくことでしょう。

56年1月


ある日の「山小屋づくり」の日

 今日の午後は、次回との二回に分けての山小屋づくりの日です。

小さなツミ木で山の家づくりです。

 アトリエに入るなり「やったあ」と、声をあげてとびこんできた男のこ、今日は暑

い位の室温で「上着をぬぎましょう」とのかけ声に、一杯着ている人はぬぎました。

いつも元気一杯の男のこは、元々うす着なのに、その一枚をぬいでハダカになりまし
た。
 「はじめは、あそぶんだよね」と別の男のこ(近頃とみに元気ハツラツな絵をが

く)いつものように作る前にガチャガチャつみき風にあぞぶのです。

充分あそんだあとは種類別に大工さんのように材料をきちょうめんに並ぺてからはじ
める人、袋の中へ手をつっこんでその都度出す人・・・・「○○ちやんの声ってお、
もしろいねえ」「なんでェ」…一ぜんぜん山の家の結果など気にしないで今、この瞬

間をたのしんであそべるこどももいる。

大器?

 「山小屋って窓は小さいよね」「入口もよ」と女のこらしいことぱ・・・あらしで
ぶっとんじゃうぞ」
 マドにあかりとりみたいにビニールをはる人、さかさまにしてみて面白い形にみえ

ると時々助言する私。

何となく各自のイメージが出来てきて、ボンドも必要になってくる。

途中で何度でもイメージ・チェンジして「これでいこう」という女の子は4年生。

「この山小屋に誰かくるがしら?ニルスがくるがしら」と私、「くものすぐらいはく

るさ」。

「ベッドもあるよ」と女のこらしいこまやかさ、男のこは時計がお、好き。ペンで

ちゃんとかきこんでいる。

しぱし、この間のTVのニルスのはなしになる「このあいだぼくみたよ」とこの前ニル
スのおはなしの絵をかかせた時に「みたことない」といっていた男のこがうれしそう

に・・・きっと連休の前日とてゆっくりみたのでしょうとほゝえましくなる。

「あのとりったら、めすのとりにやだねえやだねえなんていいながらついていってる

のね」と、かっこうつきで笑わせる男のこ。

「あたしんちの犬がわいいよ」とおっとりと女のこ、みんな々あいいねえとうらやま
しそう。男のこが「どんな犬だい?」「うんなんといったらいいが・・・こんな

の・・・」絵が好きなこどもはみんな動物好き。

 兄弟の男の子がくる。きのうTVでみたロ一マヴァチカンがらの中継での法王のこと
をお兄さんが私にはなしている「こどものあたまに手をあててもらったおかあさんが
涙を流してるのね・・・」と・・・やわらかな感受性の持主、弟も一生懸命感じた場

面をしきりにはなしていた。

私も前日ほんとうに同じ感動を持ったことを伝える。

 山小屋はこの次つづきがたのしみです。

56年2月


 


「誠実さ」のある絵

 アトリエの午前クラスでは、小さいこどもたちは全身で大きな紙に向って絵をかきます。

大きい紙なのではじめは手先で絵をかいている感じのこどももやがてぞれではとても間にあわな

いとしるとこんどは全身で絵を、かたちを、かきます。

あるこどもはかきたいものをかくと一気にかいて、あとは庭に出てあそびはじめますし、あるこ
どもはじっくりかきたいものを30分ぐらいかけてかいて、あそんでいるこどものことなど我関せ

ずです。

そして思い思いの絵が出来上っていきます。

かく部屋は同じ、時間も同じですが、かく絵は一人として同じ状態ということがありません。

大入がらみるとあ、いゝなあと思った瞬間、こどもはその上をぐちやぐちやに消してハイネ卜わ

りということも。

その位結果を気にしないこどもほどたのもしいこどもです。

 ごく小さいこどもは、どごまでが絵の時間でどこがらが遊ぴなどと区別がないのです。

全体があぞびでよいのです。

心配はありません。そのうちにかくたのしさが湧いてくるからです。

 また時間をかけたからいいとは限りませんし、又時間は短くてもかきたい気持がぱっとあふれ

ていていい絵など、ぞれぞれにたのしいです。

たゞ、こどもだってどうしても気ののらない日だってあるのです。

無理じいは禁もつ、次回をたのしく待ちましょう。

ほんとうに絵は一枚きりでみるものでなく長いつながりでみるとたのしくなります。

 又、元気な絵と乱暴な?絵とは違うのですが、紙一重の場合などよく見ないと見逃されやすい

例があります。

ある時期に少し乱暴な絵をがくようにみえても次第におちついて行き心配ありません。

あまり乱暴さ(なげやりとは違う)にこだわると、大事な元気よさが失われる場合も・・・・こ
どもの絵は現在の心理状態でかかれるため時には何ものがに向って攻撃的になっているのがもし

れません。

そうしたこどもはぐちゃぐちゃにしながら絵の上で自分を発散できるよい状態にいるこどもとい

うことです。

 また、ごく小さいこどもが大きな紙に、ことぱは少いけれど一つのものを誠実にかいている場

合等は余白は多くてもそれはたのしい絵といえますね。

 一枚のすこしの(ことば)が次の沢山の絵(ことば)の広がりのもとにこなっていくのです。


心うつねんどのおすし

今年の6月のてんらん会をみられた方は地下室の色とりどりのたのしいこども達の作品

を思い起されることでしょう。

あのなかに今でも思い出す、ほのぼのとしたねんどがありました。

ねんどで作ったおすしの一折りです。会場に来た人がこれをみてみな一ようにニコニ

コ顔になる場面に私はいくたびも出会いました。

 ある朝、入ってくるなりこれをみつけて「おすしたべたくなっちゃったあ」と大き

く叫んだ教室のごどもがいました。

まさに全くそのとおりなのですね。

 それから「こんど教室に入るから見に来ました」と言われる親子連れのこどもが

「こんなものつくっていいの?」とおかあさんに言っている声がしました。

私はその時、これを作ったこどもの自由さとこれをみて素直に叫んだこどもと、こん
なものをつくってもいいのと聞いたこどもの自由へのあこがれ?のもつ意味深さを感

じました。

あれは今油絵をやっている男の子が5年生の頃つくったねんどのおすしで、その頃その
男の子が「この問、おかあさんに『また、春すしを作ったの?』と、お、こられち
やった」と言ったので「あら、こんなにいいおすしとはお、かあさん知らないから

よ」と私は言いました。

あれは、このごどもがその頃続けて2、3回おしすしを作っていた一番あとのもので、
なんともソボクでいい感じのものでしたので「これで、すし作りは卒業ね」といった

ものでした。

このおすしには愛着がありましたのでお家にはかえさず(コワナレル)にダンボール

にしまっておきました。

6月のてんらん会まじかに思い出し、本人も忘れていた頃着色させ、会場で本物のすし

折りに入れ並べたものです。

ねんどをもつと何となくおすしを作ってしまうぞの無心さが人をひきつけるのでしょ

う。

 決して大人を意識しないこども心があのように郷愁をさそう、ほゝえましいものに

なったのだと思います。

絵でも工作でも決して形や色とがの外見が問題なのではなく、つくった人の気持が現

れて、みる人に好きとかきらいとが好ましいとがを感じさせるのですね。

こういうことは大人の世界もこどもの世界も全く同じですね。

その他にもてんらん会には、ぜんぜん大人を意識しないものばがりが並んでたのし

かったです。

55年8月